クロード・ドビュッシー《ラプソディ》を巡る 諸問題に対する考察
~Elise Hallという淑女を讃えて~
 
 

 クロード・アシル・ドビュッシー Claude Achille Debussy (1862-1918)が作曲した《オーケストラとサクソフォンのためのラプソディ Rapdodie pour Orchestre et Saxophone》はJ-M.ロンデックスが「ドビュッシー《ラプソディ》とデニゾフ《ソナタ》だけがサクソフォンの歴史における転換期といえる曲だ」と評しているように、サクソフォンの黎明期における非常に重要な作品である。サクソフォンが生まれた当時の著名な作曲家たちがこの楽器のために作品を残すことはほとんどなかったのに対し、ドビュッシーという大作曲家が作品を書いているという事実はサクソフォンの歴史の中でも特筆すべき出来事の一つであろう。だが《ラプソディ》を巡ってはドビュッシーの手稿譜と1919年にDurand社から出版された楽譜の違いや、曲の成立に対する記述の不正確さ、この曲を委嘱したエリザ・ホール夫人の日本における見解の誤り、また演奏者によって編曲された多数の楽譜の選択といった諸問題が存在しており、本論文はこういった諸問題に対する考察を主とする。
 本論は大きく分けて3章から構成されている。第一章はエリザ・ホールの再評価に大きく焦点を当てた。日本ではあまり楽器が上手くはないアマチュア奏者として認識されているホール夫人であるが、実際の彼女の演奏評を日本語で記された文献はほとんど存在していない。だがアメリカでは比較的多くの文献が現存しており、そこにある演奏評を読む限りホール夫人はかなりの巧者であったことが分かる。この章ではホール夫人の生涯と彼女の作ったボストン・オーケストラ・クラブ、数々の作曲家との橋渡しとなったオーボエ奏者ジョルジュ・ロンジー Georges Longy(1868-1930)の存在、またパリや、アメリカにおけるコンサート活動など今まで日本で知られることのなかったホール夫人像を通して彼女への評価を見直したい。
 第二章は《ラプソディ》の成立とドビュッシーの手稿譜による比較研究である。日本における《ラプソディ》の記述は錯綜しており、読む文献によって記述が違う事は珍しいことではない。その原因の一つは音楽之友社刊の「作曲家別名曲解説ライブラリー ドビュッシー」などによるものも大きい。これらの誤りを正すと共に、ドビュッシーの書簡集やホール夫人側の視点からもう一度《ラプソディ》成立の背景を整理する。またドビュッシーの手稿譜とDurand版の楽譜に少なからず差異が存在するのも問題の一つと言えよう。Durand版にはピアノ・スコアとサクソフォンのパート譜にも差異が存在し、二重にこの問題を複雑にしている。それぞれを検証することによってドビュッシーが構想した《ラプソディ》がどのような形であったかを明らかにする。
 第三章は《ラプソディ》における編曲の問題である。《ラプソディ》は1919年に出版されたDurand版を含めて今日まで11の出版社による19の版が確認されている。《ラプソディ》を演奏する際にまず考えなければいけないのは「どの版を演奏するか」ということであろう。だがドビュッシーによるオリジナルの版が存在するのに編曲版を演奏する意義は何なのであろうか。場合によってはDurand版の存在も知らずにいきなり他者の編曲版を演奏することもあり得るこういった慣習はドビュッシーに対する冒涜と捉えられても仕方がないとも言える。大きな発展を遂げた今日のサクソフォン界はこういった過去の命題にそろそろ対峙する時期なのではないだろうか。私はこういった流れを頭ごなしに否定するものではないが、編曲を行うにしても編曲された作品を演奏するにしても、《ラプソディ》のことを手稿譜も含めてもっと探求し分析する必要性があると感じる。編曲若しくは演奏というのは、その後に自らが強い必要性を感じ、その意思を持って初めて踏み込める領域なのではないだろうか。「先ず編曲版ありき」という今日の慣習はドビュッシーの創造した作品の正統性を将来的に歪めてしまう危険性を孕んでいる。編曲版を演奏する際は先ず先人がどのような版を残しているかを知る必要があり、またどの様な録音を残していたかも知る必要があろう。この章では何故こういった編曲版が演奏されるようになったのかという歴史と、全ての編曲版の楽譜の比較検証を行っている。また同時に《ラプソディ》の初録音から最新の録音まで入手出来うる全ての音源を蒐集し、それらがどの版を吹いているかも検証した。
 《ラプソディ》が持つ様々な問題を解消し、新たな演奏と研究の礎となることが本論文の主旨である。